hainekoのつれづれブログ

初めてブログを書いてみます。色んな人や好きな作品について徒然します。

まずは最初のつれづれ。

まずは最初ということで、【りっすんブログコンテスト2019】に向けて何か書いてみようと思います。

 

テーマは「#「迷い」と「決断」」ということで。

 

つい最近、私はほぼ10年務めた会社を辞職しました。

 

理由は、色んな原因から不安障害というものになり、会社に行くことが困難になってしまったからです。

私としては心が苦しく、会社を辞めたいと申し出ましたが、会社からの要望によりいったん休暇をいただきつつ病院に通う日々が続きました。

けれど会社に電話することもできない有様が続き。

幸い、総務の方が理解の深い方で連絡はラインでしてくれていたため、診断書を郵送しお休みをいただいていました。

結果、やはり4か月経っても会社に戻る方向に心は向かいませんでした。

そして、意を決し4月末で退職することになったのです。

私にとって、この決断に至るまで、長い長い自分の心との闘いの時間がありました。

 

まず、最初の頃は正社員で安定したお給料をもらうことは、子供と二人の生活をする上で必要なことであったし、ある程度の年齢になってくると転職といっても中々ないだろうという不安もあります。

何より、周りの家族にも「せっかく正社員で雇ってもらっているのに…」などの意見をもらい、自分でもそれに抗うほどの意思がありませんでした。

 

そう、なんというか自分で自分のことをわかっていなかったのです。

元々、人見知りで人前が苦手、男性も苦手で集団もつらいため、正社員で働くことに抵抗があったのですが、それは自分の弱さと甘えだから、我慢しなければならないと思っていました。

けれど、派遣先で正社員のお話を頂いた時、正直抵抗があったのですが、子供がまだ小学生だったために、有り難いと思わないといけないと、引き受けさせてもらったのです。

実際に人前が特に苦手で、心がざわざわするものだったのですが、1年前、会社の5S活動でサブリーダーをすることになり、発表の場に立たなければならなくなった時(横にいただけなのですが)、突然フラッシュバックが起こりました。

 

それは、小学校高学年の頃に経験したある日の教室の風景でした。

もう過ぎたことなのに、その風景はまるでそこにあり、そして、私にはその風景がとても辛いものだったのです。

その風景とは、ある日私のことで学級会が開かれた日の45分間でした。

学級会の原因は、私に対するある数人の女子たちがしていることについてでした。

数人の女子の中には、私を親友と言ってくれる子もいました。その彼女に誘われて、放課後毎日お芝居の稽古の真似事をしていたのです。そのころ、漫画の「ガラスの仮面」が流行っていて、私もその漫画が好きでしたし、お芝居をすること自体は大好きでした。

ただ、私はその稽古の中で、毎日毎日ダメ出しをされていました。

例えば演技をしていると「その目はダメ」などもうはっきりとした言葉は覚えていませんが、何をしても全てダメだと言われていました。

その光景は、周りの目にさらされていたため、噂になっていたようで担任の先生が私のために学級会を開いてくれたのでしょう。

でも、その学級会で、立っているのは私一人でした。私は、教室で一人だけ立たされながら、話し合いというものを何も言えずに聞いていました。

責められているのは私ではないけれど、覚えているのは「かわいそう」というような目で、一人立つ私を見ている目、目、目だらけでした。

 

話の内容はあまり覚えていません。でも、その風景がフラッシュバックで現れた時、私の心が壊れていくのを感じました。もう過ぎたことだし、私はその出来事を自分の中にバリアを張って、今まで生きてきたのです。だから大したことじゃない、私が何か悪くてそうされていたんだからと。

 

今ならわかる。私はあの時、地獄だった。一人で立っている教室がとても辛かったし、毎日毎日のあの放課後の集まりに行きたくなかった。

親にも言えず、学校も休めず、ひたすら我慢して、授業中だけが唯一安息の時間でした。なぜなら休憩時間になると、時々教室のベランダに呼び出されて、何か嫌なことを言われることが多々あったから。

だけど、友達だから何も言えなかった。それが辛いと思うことも出来なかった。

 

そういう思いが、その会社での発表の時、まるで溢れるようにこぼれてしまったのです。まるでそこにあるかのように。

 

それからも、会社には行き続けました。重い足を引きずり、段々眼鏡とマスクが外せなくなり、大勢が集まるお昼は食堂で食べられなくなりました。

今までは耐えられると思っていた、表面上は取り繕った上司の理不尽な一言にも耐えられなくなっていました。

それまではどうやって耐えていたのか。心の中でナイフで自分も相手も切り裂いて、ひどい言葉を吐いて、なんとか我慢していたのです。

 

でも。一度気が付くともう、ダメでした。でも辞める、ということに対して迷い悩みながら会社に行き続け、信頼のできる人に相談もしたりしましたが、だましだましが続かなくなってしまったのです。

 

そうして、悩んで病院にも行って、泣きながら毎日を暮らしていたけれど、その中で

色んなことがありました。

 

母親に初めてその時のことを話し、やっと辛いと言えたこと。母が、「ごめんな、つらかったね」と言って抱きしめてくれて、子供のように大泣きしてしまったこと。

 

昔からの大事な友人に、「いいねんで、君の好きにしていいねん」と言ってもらえたこと。

 

自分の人生にはその時に始まって、それ以降の学生時代も男子に対して嫌なことがあって、とにかく学校や集団が嫌なものでしかなく、世の中から見ると「普通」と言われることが出来ない自分なんだということを、やっと認めてあげられることが出来たこと。

 

 

でも。「普通」じゃなくても良いんじゃないかと思いました。私は、もう子供が成人するまで育てた。もう、これからは自分の生きやすいように生きてもいいんじゃないか。

そういう風に思えたのは、中学の時に宝物のような一人の友人に出会えたこと、コップは溢れてれてしまったけど、最後は完全に壊れてしまう前に自分を守るために、会社に状態を告げることが出来たこと。

 

私にとって、辞めることが「不安」にもなるけれど、心が「自由」になることでもありました。

 

働き方も、「正社員」という安定よりもこんな自分と付き合いながら、働きやすい働き方をしよう。

そう思えるようになりました。きっと、自分一人では無理だったでしょう。

今までに出会った素晴らしい人や物達に助けられ、生きてこられたと思っています。

 

今までの経験の辛かったことも今のこの自分に導いてくれたことなら、きっと無駄ではなく、これからこんな自分でも、何かできることがあるかもしれない。

 

転機は、いつでも訪れる。人間は何歳でもやり直せる。自分の中の本当の自分を見つけてあげられた時、やっとそう思えたのです。

 

私は「普通」じゃないかもしれないけれど、幸せに生きることはできる。自分にとって生きやすい生き方を、選べばいいだけなのだから。それが、私の「決断」でした。

 

 

拙い文章を最後まで読んで下さった方、どうも有り難うございました。

 

さて、今後は今まで出会った、助けれらた素敵な人についてや、大好きな作品等について、徒然していきたいと思います。いつかまた、お会いできる日まで。